多面体

日記

時代

ふと古い本を読みながら「この時代特有の考え方だなあ」と思うことがある。地球がたいらだと考えていた時代とか、武士が切腹するのは当然と考えていた時代とか。資本主義が発展する前の話を聞いて、我々はずいぶんと資本主義に侵されているのだと思ったり。世界はずっと動いていて、それは常識であっても変わりはない。私たちの常識は過去の非常識であり、過去の非常識はまさに未来の常識であったりするのだ。

翻って、いま私はここに生きている。西暦で言うと2021年の終わり、12/31だ。だが、この暦だって書き換えられる日は来るかもしれないし、私が盲信している「科学」というオカルトが笑い飛ばされる日も来るのかもしれない。明日がどうなるかは誰にもわからない。

わたしは今宗教を軽視し、現在の価値観を良しとしている。資本主義的考え方が正しいものだと思っているし、科学的根拠の無い話など聞く必要はない。人と人との繋がりよりもバーチャルの発展に興味がある。だが、そうであっても、私に話しかけてくれる人や社会との繋がりがまったくなくなったら私は発狂してしまうだろう。

私は本があれば生きられる人間だった。昔の私は精神病院に閉じ込められようが牢に繋がれようが、本さえ与えてもらえるならばそれはとても良い暮らしだと、そう夢想していた。

今の私は逆だ。家族に話を聞いてもらって承認欲求を満たし、Twitterでリプライをもらって喜び、バイト先で先輩ヅラをして嬉しがっている。私はほんの少しだけ人と社会との繋がりがあり、その他にはまったく繋がりがない。そういうこの暮らしがとても合っている。そういうふうに思う。

とはいえ、そろそろ大学は中退せねばならないし、そうなると大学のカウンセラーの先生とはお別れだ。カウンセリングはもう受けられない。気軽に話せる友人を探したい。ただ、その気力が自分にあるかはわからないが。

世界は変わる。時代も変わる。私も日々変わる。そこに適応し続けるのは難しいが、しかしやらねばならないことだ。

私はこの先の生き方を決めねばならない。どう働き、どう社会に貢献し、どう生きていくのか。

昔の武士の家にでも生まれていれば、家臣としてただ一心に仕えればよかったのではないかと夢想するときがある。でも、私はそうではないから、そうやっては生きられない。

生きていくというのは舵取りをすべて自分でやるということだ、というのを、成人を過ぎてもう何年にもなるのに今更思い知っている。