多面体

日記

推しの立ち位置の難しさ

つい昨日公開された映画でSNSが荒れている。私の心も荒れている。

主演を務めたのは私の推しだ。積極的推しではなくちゃんと追ってはいないが、小学生中学生のころはテレビを必死に追ったものだ。幼いころにデビューして芸能界を生き抜く姿に惚れ惚れとしたものだ。

正直にいって、映画予告の時点でヤバい気はしていた。いかにも邦画のダメなタイプの映画だな〜と思っていた。「各所絶賛!」「衝撃のラスト!」「豪華俳優陣!」あ〜ダメそう。しかし彼はヤバい映画を引くことが多いので、正直まぁいつものだな、と思っていた。

ところが、これがまた外れクジでも一等の外れクジ。特撮オタク側からの期待が高すぎて、特撮側から荒れた。マジか。

あんなんヤバい代物だって誰でもわかるだろ!シンゴジラ二匹目のどじょう狙いだぞ!まともな脚本出てくるわけねーだろ!しかも怪獣もの会社配給じゃないだろ!こんだけ予算かけてもダメな時はダメだよ!

というヤバさに気づかないまま、特撮への期待値高く見に行った特撮側オタクや映画オタクからさんざんに非難を浴びた。そしてそこらへんが叩いたから「おっ叩いていいやつか!」ってオタクの雑叩きが始まってしまった。やめろ。

最初から映画製作陣はやべーーーー予告を出しておけよ!コメディだってハナから出せ!シリアスっぽくシンゴジラっぽい予告を出すな!

なんでシリアスっぽく作っちゃうのかなーーーーーーーこんなん敗戦処理だってみんなわかってただろうよ……。

最初からコメディだってわかっていたらここまで荒れなかった。オタク期待値を煽るとスカした時に荒れる。ハガレンとか最初から誰も期待してなかったから荒れなかっただろ。俳優の顔の美しさを見るためだけにきゃいきゃいする層が見に行く映画だな〜って暗黙の合意があったからだろ。最初からその層狙いですよって広告を打て。

伊坂の実写化だって小説版にも漫画版にも準拠してないどっちつかずでさ〜! 昔の伊坂映画の完成度を返せ。蝉に山田のイメージ無いけど、できるんじゃない!?って思わせた私の期待を返せ。

暗殺教室はもう最初からそういうやつだよね〜って空気だったからいいけどさ〜。

なんで毎回毎回こんな外れ脚本外れ監督ばっかり回ってくるかな〜。わからん。顔もいいし演技もできるしアクションしろって言ったらちゃんとやるだろうし。何がいけないんだ。身長か!?身長なのか!?

最近YouTubeも始めたし、彼の「世論の空気の読み方」はめちゃくちゃ上手い。というか、たぶん「与えられたロールを120%演じ切る」のがとてつもなく上手いんだと思う。アイドルをやってるときはアイドルに徹するし、バラエティタレントを求められればちゃんと笑いを取ろうと頑張る。ちゃんとYouTuberとしての動きも的確。ゲーム実況、自チャンネルでの切り抜き、他大手YouTuberとのコラボ。しかもVやゲーム実況者など既存ファンだけではなく別層にリーチできるようにしてる。すごく考えられた上にYouTubeを研究した動きをしてる。

たぶん彼はめちゃくちゃエゴサしてる。だってオタクが求める偶像の解像度が高すぎるもん。Twitterも見てるし5chも見てると思う。そのうえでパブサもしてる。世間の動向をすごく良く見てて、テレビオワコン論とかもちゃんと目を通して、それでYouTube進出チャレンジとかしてるんだと思う。それは彼のすごくいい場所だ。

幼いころから芸能界で大役を任された彼が、15年をかけて処世術を学んだ彼が、今後の舵取りを間違えるとは思わない。YouTubeライブでもたぶん彼は失言して炎上とかしない。そういう守りや演技は彼の得意分野だ。ただ、彼のクリエイティビティについては懐疑的だ。彼は1を10にするのが得意だったり、10を学んで12を再現したり、そういうのが得意なのだと思う。実際にそうだ。0を1にする天才ではない。磨かれた凡人だ。だから、自分でロール自体を作り出さねばならないという場所になった時が不安だ。

ゲーム実況はいい。エペなら上手く魅せプしたり、コラボ先と喋ったり、そういう道がある。ストーリーあるゲームの実況とかもいい。すでにストーリーがあってそれにリアクションすればいい。4人でのチャンネルもスタッフはたぶんたくさんいるし、4人で相互に掛け合うことで面白さが出る。4人それぞれのファンの交流でさらに面白さもある。

では、たとえばいわゆる辞めジャニみたいなルートを辿ったら? そういう時が不安だ。

いや、それよりも、現状の映画の燃え方を見るに、たぶん邦画界はかなりヤバい。オタクは邦画にまったく期待していない。今回もかなり実績のある会社や監督が作ってコケている。良い邦画と悪い邦画にかなり層が分離している。そして、現状の所属事務所は「悪い邦画」の層へのコネや義理がかなり強いのだと思う。

私個人としては「悪い邦画」、いわゆる……なんだろう、スベってる映画がキッツイな〜と思うタイプなので、どうにかマシな映画を引きあててほしい。俳優は脚本や監督に与えられたロールを演じそれを乗り越えるためにいるのであって、映画自体を創り出すのは彼の仕事ではない。彼にできないことは優秀な裏方によって演出されるべきだが、現状その「優秀な裏方」つまり脚本監督に巡り会えていない。

というか、彼はかなり映画選んで出てない? かなり勝算がありそうな企画を選んでる気がする。この映画もたぶん企画段階ではかなり魅力的な企画だったし(だからこそオタクが釣られて変に叩かれた)うまく噛み合えばかなりのところまで行けた企画だった。脚本と監督と企画の相性が壊滅的だっただけで。その中でもどうにか敗戦処理をしている彼はマジで偉い。現場は偉いよ。

暗殺教室はそもそもオタクウケをターゲットから外してライト層狙いっぽかった。そういう意味ではかなり意味がある映画だった。ライト漫画オタク及びファン層、そして名が通ってる漫画の実写化というネームバリュー。天秤に乗せればメリットが勝つ。オタクウケは一旦視野から外すことでプラマイでプラス。という計算だったんじゃないかなー。実際にオタク層はそこまで期待せずにスルーしたし、たぶんライト層には名前と顔が売れたのだろう。たぶん。

そういう計算のもとの爆死はいいんだよ。そういうのはすぐ印象が薄れる。オタクはターゲットが自分じゃないと気づいたらすぐに意識外に置くから。オタクからの爆死は織り込み済みでの爆死。それならいい。

問題は今回、変な大喜利のネタにされたことだ。今後このタイトルが出た瞬間に「出た〜くそ映画!」みたいにされる。やめろ。まじでやめろ。「令和のデビルマン!」とか変なあだ名をつけると浸透するだろ。早めに薄れてくれ。

今後彼の代表作としてしばらく経歴に書かれるのはわかりきっている。だからこそ、早めに早めに早めに、当たりクジを引いて欲しい。脚本や監督は当たり外れが大きすぎる。ぜひ山ほど出演して、山ほど当たりを取って、さっさと経歴の山に埋めてくれ。

とはいえそろそろ三十路、そうなれば求められる演技も変わる。つい偶像視して忘れがちだが、彼も一日は24時間しかないし、時間は有限。どこでどう咲くかは運次第。ここから彼がどう動くのかはわからない。もしかしたら演技方面はスッパリ辞めるとかもあるかもしれない。無いと思うが。むしろ演技が向いてると個人的には思うが。難しいよな。今日日キャリア形成は多様化したからこそ、道標はどこにもない。彼は賢いのでもっとも良い選択肢を取ってくれるだろうが、それが未来から見て最良であったかどうかは誰にもわからない。

それはそれとして私は全部見るからな。この映画も見るからな。

 

バイトクビになったぜ!

バイトをクビになった。

無断欠勤の多さが主な理由だ。年末年始、5日くらい無断欠勤してる。こんなんクビで当たり前だ。ついでに他のスタッフも一気に抜けてるので、ほぼメンバー一掃開店というかんじ。

さてここから退職までにどれだけ職場に貢献できるかのタイムアタックだが、それよりまず問題なのは今後の身の振り方だ。

借金80万あるバカ、無断欠勤多し、スキル無し、大学中退、ブス、怠惰、愚か。水商売だって勤まる気がしない。

一応復学というのも考えてはみている。頭の隅っこでだけ。奨学金借りられないかな〜。そしたら、わたしは思う存分学べるのかもしれないし。……そんなのも、ただの感傷かもね。

相似系

仮面ライダーを見ている。以下555ネタバレ。

 

 

555を見ていて、乾巧がオルフェノクであることが判明するあたりに差し掛かってきた。正直私は乾巧がウルフオルフェノクであることは知っていたし、どこかで正体バレするだろうなとは思っていた。だが、そのオルフェノク化が「ガキのころ」に起こっていたとは知らなくて驚いた。

木場ですらオルフェノクになったのは一話時点であり、一年も経っていないはずだ。結花や海堂を仲間にしてもまだ不安定な情緒である木場、木場自身は平凡な小市民じみた精神性を持っていてかなり平均的一般人の感性であることを鑑みると、乾巧が18の若いみそらで孤独にオルフェノク化を受け止めていたという事実は驚くべきことだ。

乾巧はずっと自分を信じられなかった。それはオルフェノクという力、野蛮さを抑え込むことに自信が無かったのだ。ふとした瞬間にオルフェノクとして暴力を振るう自分。エスカレートして人を殺めてしまう自分。そういう姿が脳裏にあって、それでどうしても自分を信じきれない。悲しい。

時代

ふと古い本を読みながら「この時代特有の考え方だなあ」と思うことがある。地球がたいらだと考えていた時代とか、武士が切腹するのは当然と考えていた時代とか。資本主義が発展する前の話を聞いて、我々はずいぶんと資本主義に侵されているのだと思ったり。世界はずっと動いていて、それは常識であっても変わりはない。私たちの常識は過去の非常識であり、過去の非常識はまさに未来の常識であったりするのだ。

翻って、いま私はここに生きている。西暦で言うと2021年の終わり、12/31だ。だが、この暦だって書き換えられる日は来るかもしれないし、私が盲信している「科学」というオカルトが笑い飛ばされる日も来るのかもしれない。明日がどうなるかは誰にもわからない。

わたしは今宗教を軽視し、現在の価値観を良しとしている。資本主義的考え方が正しいものだと思っているし、科学的根拠の無い話など聞く必要はない。人と人との繋がりよりもバーチャルの発展に興味がある。だが、そうであっても、私に話しかけてくれる人や社会との繋がりがまったくなくなったら私は発狂してしまうだろう。

私は本があれば生きられる人間だった。昔の私は精神病院に閉じ込められようが牢に繋がれようが、本さえ与えてもらえるならばそれはとても良い暮らしだと、そう夢想していた。

今の私は逆だ。家族に話を聞いてもらって承認欲求を満たし、Twitterでリプライをもらって喜び、バイト先で先輩ヅラをして嬉しがっている。私はほんの少しだけ人と社会との繋がりがあり、その他にはまったく繋がりがない。そういうこの暮らしがとても合っている。そういうふうに思う。

とはいえ、そろそろ大学は中退せねばならないし、そうなると大学のカウンセラーの先生とはお別れだ。カウンセリングはもう受けられない。気軽に話せる友人を探したい。ただ、その気力が自分にあるかはわからないが。

世界は変わる。時代も変わる。私も日々変わる。そこに適応し続けるのは難しいが、しかしやらねばならないことだ。

私はこの先の生き方を決めねばならない。どう働き、どう社会に貢献し、どう生きていくのか。

昔の武士の家にでも生まれていれば、家臣としてただ一心に仕えればよかったのではないかと夢想するときがある。でも、私はそうではないから、そうやっては生きられない。

生きていくというのは舵取りをすべて自分でやるということだ、というのを、成人を過ぎてもう何年にもなるのに今更思い知っている。

運と金

最近チケット運が良すぎる。

今月は観劇が多かった。前から行く予定だった公演もあれば、その日その時行くことにしてふらっと行った公演もあった。数えてみたが、今月だけで8回ほど行っている。

昴に三回、ともだちに二回、Gロッソに二回、ヘタミュに一回。行き過ぎだ。

そのうち、最前列が一回、前五列内が五解散ほどあった。完全におかしい。チケット運がバグっている。

そんなに徳を積んだわけでもあるまいし、と思ったところで、「引き落としできませんでした」の通知がきた。

なるほど。

借金まみれの人間だと、神も憐れんで運を恵んでくれるというわけか。

年間収入が80万で借金が80万という恐るべきバカに神が恵んでくれたわけだ。なるほどなるほど。言葉にするとさらにバカさが増すな。

さて、今月支払いが三万足りないんだがどうするかな

学びたいこと

私は性格が悪いので愚痴垢を持っている。愚痴垢は何も考えずにクソみたいな話題を垂れ流せるし、政治にも触れやすい。何より、しばらく使っていなかったので友人も何もいない。透明アカウント。なかなか居心地がいい。

人のゴシップを見るのは楽しいもので、だんだんといろんな人のゴシップを見るようにフォロー層が広がっていった。そして最近目につくのはいわゆるツイフェミvsアンチフェミの闘いである。

ここで私がツイフェミとアンチフェミというワードを使うことに特に大した意味はない。比較的私からみてその界隈に当てはまりそうなワードを使っただけだ。お互いにいろんな蔑称ラベリング名乗りをおこなっているので、どう呼べばいいのかわからない。

さて私は女なのでやはりフェミニズムの味方というか、フェミニズムの訴えることにかなり頷ける部分が多い。賃金格差や教育格差は是正されるべきだし、性暴力は減らしたいし痴漢も嫌い。ハイヒールも強要されるのはイヤ。

でも、フェミ側の暴走に見える部分もときどきある。ミラーリングの下手さや強い口調、差別的発言。できるだけ目を逸らしてきた部分もあるが、やはりそれは許容できないのでは、と思えることも多々ある。

 

それから表現の自由表現規制の問題はオタクである私にとっても関心が高く、それだけにまた一層に頭を痛める話題だ。

私は昔山田太郎氏に一票を投じたことがある。あのときの盛り上がりとうねりはすごかったし、実際に50万だったか、それだけの票をとって国政入りしたときはオタクとしてかなりの期待を寄せていたのだった。

だが、その少しあとに表現の不自由展があった。あれに対して、山田太郎氏は「表現の自由は守られるべきです」という一般論的ないい子ちゃんのツイートをするだけで、それ以上のことはしなかった。

あの時の私はそれを見て「ああ山田太郎が守りたかったのはオタク表現だけなのか」とがっかりして、フォローを外してしまったのだった。

当時きちんと彼の発信を追っていたわけではなかったので、もしかすると彼が不自由展実施に向けて何か動いたのかもしれないし、自民党という立場からではあれ以上の意思表示は難しいという事情もあったのかもしれない。だが、あの時にふとガッカリしたことだけは事実として私に刻み込まれてしまった。

その後、おぎの稔大田区議会議員がオタク界隈にすりよってくる。彼が昔からオタクでありそれを表明していたことは当然知っていたが、同時に彼の不祥事も知り、犯罪や金の始末が信頼できない政治家は信用できないと思いブロックした。なのに、彼はバーチャル世界でいかにもまともなオタクですよという顔をして、V世界にやってきた。これは本当に耐え難かった。このころはVtuverオタクだったので、余計に噴飯物だった。

長くなってきた。まとめていこう。

 

要は私はTwitterのタイムラインを流れていく人々が何に怒っているのか、どこを争点としているのか、そういうことを知りたい。

そのために、まず知りたいことはフェミニズムの思想と成り立ちだ。フェミニズムを名乗る人たちは一体どのような思想を共有しているのか。

次に表現規制の歴史と法的問題だ。チャタレイ夫人だのは知っているが、それ以降のサブカルチャーにおける表現の規制や自粛。それにより発生した問題。

そして、それらを知ってようやく、私はこの問題のスタートラインに立てるのだとおもう。

 

 

歯車

私は昔から歯車になりたかった。一般的な社会人として相応な会社に勤めて何十年と浪費して自分の人生というものを磨り減らしていくのだと信じて疑わなかった。

それが、それすらできない欠陥不良品だとわかって、私はひどく落ち込んだ。歯車になれないからといってオーダーメイド品になれるなんて甘い世界ではないのだ。

今の私はまるでイカロスのようだ。ただ目が眩んで自らの愚かさに目をつぶって飛んでいる。いずれ落ちる。蝋の羽はすぐに溶ける。

でも、たぶん落ちてもまだ死ねない。現代社会で死ぬのはけっこう難しい。死ねない。なら生きるしかない。生きていくための施策を考えなくては。