多面体

日記

「死ね」と言うこと

https://note.kishidanami.com/n/ne6348c74808c



私は人に「死ね」と言ったことがない。気がする。


それは当然に刷り込まれた教えであり、「汚い言葉を使ってはいけないよ」という道徳であり、それはそれなりに気に入っている。どうしようもなく腹が立っても、誰かの死を願うところに思考が直結しない、もしくは思っても口に出さない。それはとても上品なお作法だし、私自身もけっこう誇りに思っていたりする。


でも、それが呪いにはねかえることも、あったりする。


別にいいとこのお嬢さんというわけではないが、私はあまり罵倒の語彙が無い。それは祖母の教育だったり、母もあまり罵倒するタイプではなかったり、そういう暮らしによって語彙が偏ったのだ。クラスの男子で「死ね」というやつはいたかもしれないが、真似はしなかった。それは言ってはいけない言葉だという規範が染み付いていたからだ。


でも、私は殺したかった。


母を殺したかった。父を殺したかった。祖父母を殺したかった。


私の苦しみの真ん中に、さまざまなものがあった。ままならない環境、みずからの愚かさ。その全てをリセットし無に帰すためには、自殺しかなかった。だから自分で自分を殺そうとした。でも、まだそこまで覚悟も定まっていないころに、つい、「私が自殺したいって思ってることも知らないくせに!」と祖母に言ってしまったことがあった。

祖母は泣いた。

だから、私は私が死んでしまうことで人を悲しませるのが嫌で、だから私が死ぬと悲しむ人を自殺する前に全部殺してしまいたかった。


たぶん、これは欺瞞だ。私はたぶんあのころ憎んでいたのだ。私を捨てた父、ぶつ母、母への呪詛を吹き込む祖父母、それなりに良い人に見えた父の愛人、離婚によって変わった苗字を不審がるクラスメイト。たぶんすべてを憎んでいた。でも、私はそれを「死ね」と出力できなかった。それはいけないことだから。だから、それが跳ね返って奇妙にねじ曲がって、「自殺のために人を殺さなければ」なんて、意味のわからない強迫観念になったのだ。


今も、私の脳みその中で「死ね」と叫ぶやつは、私ではない私だ。「私ではない他人の私」と設定した私が「死ね」と叫ぶのなら、それは私ではないから許される。そういう形で決着がついたのだ。でも、その「私ではない他人の私」が呪詛を吐く相手は、私だ。


私は私に対してずっと「死ね」と思っている。他人に言ってはいけない言葉だけど、自分に言うなら許されると思うから。自分が生きていることを、頭の片端で許せないから。それはもしかすると深層心理では「死ね」と他人に思っているのかもしれないけど、でも表層に現れて自分が理解できるのは、自分の一部が自分の存在を死ぬほど憎んでいるという形になる。それなら、私はきっと人を殺さなくて済むだろう。たぶん。それが、今は比較的私の心の安寧に繋がっている。私はいつか私が快楽殺人か無差別殺人をやらかして、法廷で大笑いする未来から逃れられないのだと思い込んだ時期があった。その頃からすればよほどマシだ。


いつか、この自らへの「死ね」も無くなるといいけど、まあ無理だろう。せめてこの矢印が外に向かないように、私が私の心の奥底をきちんとコンクリートで固めておけば、きっと短い人生のあいだきちんと埋めておけるはずだ。管理下におけるはず。私はきっとこれからも他人に対して「死ね」とは言わずにすむし、殺さなくて済む。そういう未来にいけるといい。


あぁ、でもきっと、私の記憶に残ってないだけで、昔「死ね」って言ったんだろうな。だって私がいじめてたやつ、飛び降り自殺しようとしたもんな。だからやっぱり、私は私に死んで欲しい。死ねよ。死ね。


ははは、結局私という存在の根底は悪人なのだ。ははは、しかも愚かな悪人だ。あーあ、こんなクソキャラ、とっとと死ねよ。