多面体

日記

借金

学生のころなんのバイトもしたくなくてクレカ作ったり資料請求したりするだけで数千円ってバイトをやった。そのときクレカを三枚作った。ネット通販なんかに便利だと一枚を常用にし、二枚目を非常用、三枚目は引き出しにしまいこんだ。一枚目は上限10万だから一月5万弱が自由に使えるお金と決めて遊んでいた。バイトは月収7万で家に金入れてないからそれで余裕で回った。
ある日どうしても欲しい絵があってそれが25万だった。どうやってもそんなお金出せないなと思いながらなんとなく昔作ったクレカの枠調べたら三枚目に30万あった。
もう止められなかった。

当然一括で払えるわけがないので分割にするつもりだったが、与信が足りなかった。仕方なくサラ金で借りて一括返済し、サラ金はコツコツ返そうという形になった。
さらに気を大きくして他の三枚目のクレカで10万のリボ払い。電子書籍のセールで、逃せば二度とこんなに条件のいいセールはないと思って10万円ぶん買った。
そんな時に運の悪いことに一枚目のクレカ上限が30に上がった。

タガが外れるまで時間はかからなかった。

これまではカード枠の残高を気にして買い物をして、2ヶ月合わせて10万超えるとなればカードがとまる、という制限があったからどうにかなった。気がしていた。

今、借りている額をちゃんと数えた。

164384

168898

258261

合計で

587206円

 

バカじゃなかろうか。

私のせいだ

バイト先の先輩がバイトを辞める予定だと店長から聞かされた。

みんな古参の方ばかりで頼れる先輩方だったが、おそらく私のせいで退職することにしたんだろう。

私はときどきというかかなり頻繁に当日欠勤をする。しかも限界ギリギリまで連絡しないし、たまに連絡すらせずにバックれることすらある。

これは私の精神の弱さゆえだ。ふとした瞬間に出勤できるかできないかわからない心境に陥ってしまい、そのまま連絡も何もできずに布団の上で精神が死ぬ。罪悪感でさらに気分が沈む。

本当に申し訳ないと思っているのだ、対策も取ろうとしている。だが、それでもダメなときはダメだし、わたしにはどうしようもないんじゃないかって諦めかけそうになっている。そもそも私は働くことすらできない社会不適合者なんじゃないかって。

そんなことはお構いなく、現場には負担がかかる。当然私が抜けた穴は他の人が倍働いてどうにかしないといけない。恨まれて当然だ。

なのに私はみんなに甘えている。正直、多少休んでも許してくれるよね、という気分でいるのではないか、と自分を疑っている。そんなことは許されない。みんなが優しいからって、裏で積もった不満は消えない。

しかも、その上私は効率化と称して一部の作業を私に属人化してしまった。これでは店長は私を解雇できない。

しかもその上私はこのバイトが労働基準法違反ではないかという話をみんなにひろめてしまった。当然私がここは指揮をとって労働闘争、戦わねばならないが、私は気分のむらがひどいので、このひと月くらいほぼほったらかしだ。

もともとこの店のアルバイトたちには店長に対する不満があった。でもそれは私が入った直後には笑い話として扱われていたものだった。最近はだんだんと本気で店長に抗議するものや怒りを覚えている人が多い気がする。これもたぶん私のせいだ。ここでは何か不満があれば店長のせいにすることでバイト同士憎まないようにする、という不文律があった。しかし私が入って現場の負担が増し、さらに店長が法的にも悪なのでは、という疑念を植え付けてしまった。その結果店長に対して「怒ってもいいのだ」「辞めてもいいのだ」という空気が形成されてしまったのではないか。

しかも、ここで彼女らは不満をぶつけて待遇改善に動くような働きかけはせず、退職について話す方向にすぐにいったようだ。それは、店長には何を言っても馬耳東風だという空気はもちろんのこと、どうせ言っても変わらないという諦めが、店長に対しても私に対してもあったのではないか。

だって、三人一気に辞めるというのだ。

おかしいじゃないか。個々の事情ならなぜ三人一気に辞める必要がある?

みんな、耐えられなくなったんだ。私に。

私がみんなの輪を壊したんだ。

あーあ、いつもこんなだ。人の関係を壊してばっかり。嫌だなあ。

たゆたう世界

そういえば、最近ばんそうこうを使っていない。

ときどき指先を切ることはある。ささくれが深くなって血を出すこともある。でも、その程度なら数分乾かしておけばすぐ血はどこにもつかなくなるし、数分くらいならティッシュで押さえてても、もしくはまったく押さえずに宙に浮かしておくだけでも血は止まる。

今、段ボールのはしでピッと中指を切って、これも当然すぐに乾いてしまうから、ばんそうこうを探したりはしないけれど。

こうやって小さな傷を気にしなくなると、だんだん世界に対して感度が鈍っているのだなぁと思い知らされる。なんだか今の生活は、薄い膜に覆われた中でたゆたってるみたいな、暖かで柔らかで生きやすい。

もちろんこんなぬるま湯はすぐに冷める。

大学の学籍は休学という手でどうにか誤魔化しているが、来年3月には籍を失う。そうなれば、私はただの実家暮らしニートであって、年金の免除だか先延ばしだかの手が使えなくなるかもしれない。年金は高い。保険は今のところ親の扶養にあるが、その親が死ねば私は家も何もかも失う。喪主? 何をすればいいのかさっぱりわからない。

私は、「私は社会に対して不誠実だ」と思う。勤労納税を怠りながら、福祉と医療に頼っている。しかもそこに安穏としている。五体満足に生まれながら、なんともみっともないことだ。

しかも、それだけ優しい環境にいて、感性は毎日死んでいく。記憶力も曖昧で、昨日と一昨日の別もつかない。積み上がった本のタイトルを見て満足してしまい中を読まない。バカにも読めるような安っぽい娯楽本だけ読んで時間を浪費して満足している。

私はもっと学びたかったはずだ。もっとたくさんのことを知りたいし、もっと広い分野を知りたい。その知識欲すら、すでに私の心からはずいぶん遠いところに置きっぱなしだ。

なんだろうな、私は何をしたいのだろう。

少なくとも、今が最高で最善とは思っていない。もっと、どうにかしたい。どうすればどうにかなるのかなんて誰にもわからないから、とりあえず、興味のある分野の本を読みはじめようとしている。

 


今興味のある分野

プログラミング(特にC)、医療、医療事務、眼鏡師、応急手当て、経済、政治、世界史、日本史、建築、地理、民俗学、軍備、運輸安全委員会フォークリフト、輸送、兵站、飛行機、服装、ミステリー史、哲学、宗教

「死ね」と言うこと

https://note.kishidanami.com/n/ne6348c74808c



私は人に「死ね」と言ったことがない。気がする。


それは当然に刷り込まれた教えであり、「汚い言葉を使ってはいけないよ」という道徳であり、それはそれなりに気に入っている。どうしようもなく腹が立っても、誰かの死を願うところに思考が直結しない、もしくは思っても口に出さない。それはとても上品なお作法だし、私自身もけっこう誇りに思っていたりする。


でも、それが呪いにはねかえることも、あったりする。


別にいいとこのお嬢さんというわけではないが、私はあまり罵倒の語彙が無い。それは祖母の教育だったり、母もあまり罵倒するタイプではなかったり、そういう暮らしによって語彙が偏ったのだ。クラスの男子で「死ね」というやつはいたかもしれないが、真似はしなかった。それは言ってはいけない言葉だという規範が染み付いていたからだ。


でも、私は殺したかった。


母を殺したかった。父を殺したかった。祖父母を殺したかった。


私の苦しみの真ん中に、さまざまなものがあった。ままならない環境、みずからの愚かさ。その全てをリセットし無に帰すためには、自殺しかなかった。だから自分で自分を殺そうとした。でも、まだそこまで覚悟も定まっていないころに、つい、「私が自殺したいって思ってることも知らないくせに!」と祖母に言ってしまったことがあった。

祖母は泣いた。

だから、私は私が死んでしまうことで人を悲しませるのが嫌で、だから私が死ぬと悲しむ人を自殺する前に全部殺してしまいたかった。


たぶん、これは欺瞞だ。私はたぶんあのころ憎んでいたのだ。私を捨てた父、ぶつ母、母への呪詛を吹き込む祖父母、それなりに良い人に見えた父の愛人、離婚によって変わった苗字を不審がるクラスメイト。たぶんすべてを憎んでいた。でも、私はそれを「死ね」と出力できなかった。それはいけないことだから。だから、それが跳ね返って奇妙にねじ曲がって、「自殺のために人を殺さなければ」なんて、意味のわからない強迫観念になったのだ。


今も、私の脳みその中で「死ね」と叫ぶやつは、私ではない私だ。「私ではない他人の私」と設定した私が「死ね」と叫ぶのなら、それは私ではないから許される。そういう形で決着がついたのだ。でも、その「私ではない他人の私」が呪詛を吐く相手は、私だ。


私は私に対してずっと「死ね」と思っている。他人に言ってはいけない言葉だけど、自分に言うなら許されると思うから。自分が生きていることを、頭の片端で許せないから。それはもしかすると深層心理では「死ね」と他人に思っているのかもしれないけど、でも表層に現れて自分が理解できるのは、自分の一部が自分の存在を死ぬほど憎んでいるという形になる。それなら、私はきっと人を殺さなくて済むだろう。たぶん。それが、今は比較的私の心の安寧に繋がっている。私はいつか私が快楽殺人か無差別殺人をやらかして、法廷で大笑いする未来から逃れられないのだと思い込んだ時期があった。その頃からすればよほどマシだ。


いつか、この自らへの「死ね」も無くなるといいけど、まあ無理だろう。せめてこの矢印が外に向かないように、私が私の心の奥底をきちんとコンクリートで固めておけば、きっと短い人生のあいだきちんと埋めておけるはずだ。管理下におけるはず。私はきっとこれからも他人に対して「死ね」とは言わずにすむし、殺さなくて済む。そういう未来にいけるといい。


あぁ、でもきっと、私の記憶に残ってないだけで、昔「死ね」って言ったんだろうな。だって私がいじめてたやつ、飛び降り自殺しようとしたもんな。だからやっぱり、私は私に死んで欲しい。死ねよ。死ね。


ははは、結局私という存在の根底は悪人なのだ。ははは、しかも愚かな悪人だ。あーあ、こんなクソキャラ、とっとと死ねよ。

ともだちがきた 11/3 夜公演

浅草九劇にて上演中の「ともだちがきた」2021/11/0317:00公演を見た。以下は内容に触れて感想を書く。


前情報はほぼなし。三人の俳優、二人の登場人物、コイントスによる配役。そこだけ。



上演前にうちわを投げて配役を決めた。さらに服装もその場で決めた。


劇が始まってすぐ、ここは精神病棟の一室なのではないかと思った。「私」(登場人物の一人である)は上下ともに白の服装であり、畳敷きとはいえぽっかりと四角く切り取られた何の家具も調度もない部屋は、いかにも病棟の一室に思えた。「私」は畳に這いつくばり、アリが埃を食べるかを観察する。その時の、前触れなくいきなり大声を出す様は精神病によくあるそれをとてもよく表していた。いっぱいいっぱいまでたわめられた精神が、みずからも意図しない言動として顕れているのだ。彼は夏の畳の部屋で、ただ一人でいきなり大声を出し、暴れ、嘆く。(どうでもいいが、演劇人の突然の大声はほんとうに大声でかなり強い)

「暑いなあ」というセリフはあまりに陳腐な説明台詞に一瞬思えたが、すぐに思い直す。たぶんこれは反射だ。精神が限界の時、脳はただ感じたことをそのまま吐き出し、そのまま思いつくままの連鎖で言葉を繋ぐ。それはただ精神の崩壊を防ぐためだけの言葉であって、観客を想定した説明台詞ではない。


そこに「友」が登場する。自転車による登場。畳の上に靴で上がる非常識。二人の会話が空転し、噛み合わずにさらに大声が出る。自分の意思を通そうとする大声ではなく、やはりこれも反射で出る前触れのない大声。そして「友」もやはり精神がどうもおかしい。鬱が「私」なら、「友」は躁状態のようだ。自転車を乗り回し、おちゃらけたふりをして言葉を躱す。赤のTシャツに青のズボンという服装もそれをよく表している。そしてここで「理由にこだわる私」と「そんなのはどうでもいい友」の対比がある。これも精神病に由来するのだろうかとこの段階では思ったが、そういうわけではないようだった。


どうやら「友」は死んでいるらしかった。「私」はその死にかなり衝撃を受けている。そりゃ、多少精神面が不安定にもなる。

しかし、だからといって「友の死」というイベントより前の彼らがまともだったとも思いづらい。回想でもだいたい二人ともヤバかった。精神異常者の友情は、とてもユニークで強固なものになるのだ。私や私の友人もだいたい精神異常者だからよくわかる。


最初、「友」は平面になる、と言っていた。全てが平面に見えると。彼は圧死したのではないかと思った。トンネルか何かを自転車で通ってるときに、天井が落ちて、ぺちゃり。ぺたんこになった死体を恐れ、死=平面と解釈したのかと思った。が、まあさすがにそれは違った。


「海にいこう」という台詞は、いかにも陳腐だ。おそらく、きっと「私」はこういう時に何を言えばいいのか、正解を知らないのだ。正解なんてないのにね。だから創作物によくある台詞を言う。その結果として死ぬ人間の一人称証言が聞けたのは貴重だ。個人的にこういうのが好きだ。死ぬ人間の死ぬ瞬間を証言してもらうことなんて、不可能だからだ。肺の形でのぼっていくあぶく、美しいだろうな。


かなり間をすっとばすが、結果として彼らは剣道でぶつかり合う。彼らの共通言語がこれだったのだろう。「なんらかの戦い」によってお互いの魂に触れる、そのツールはなんでもいいのだ。おそらく、彼ら自身もそんなに剣道が人生で一番大事というわけではなくて、ただ二人の最大公約数が剣道だった、それだけ。彼らは狂人で、それゆえに友人もおらず心許せる恋人もおらず、その結果として二人だけの奇妙な依存を育んだ。


物語というのは、たいてい狂人か狂った世界かを出すととても面白くなる。特に短い物語はその傾向が顕著だ。そして、狂人が最後に少しだけ常人にも理解できる文脈で心情をあらわしてくれるから、観客はそれに寄り添えるのだ。


俺が生きた証拠が欲しい。なかなか万人に通じる理屈だ。本当に彼が何も遺せていないことが丹念に描写されているから、尚更響く。結果として、写真を撮って「友」は消える。そこに、写真という唯一のものを残して、自転車に乗って消えていく。


今回演じた役者は、「私」役は比較的大柄だった。それに対して「友」役はかなり細身だった。それが登場人物の性格にぴったりハマっているように感じ、さらに直前に決めたはずの服装まで、躁と鬱を表してとてもぴったりだった。「色っぽいほっぺ」も本当に色っぽかった。この奇妙なまでのハマり具合があまりに私に驚愕をもたらしたので、そのまま次の日のチケットを取ってしまった。金が無いのにバカなことをとは思うが、別の役者による解釈のバージョンが気になって仕方なくなってしまったのだ。後悔はしていない。


だんだんと言葉が散らばってきた。よくない。とりあえず書きたかったことは書いたはずだから、このあたりで切り上げよう。




「友」の靴、玄関に置きっぱなしじゃない?

雨が降っている

昼に出かけたときは降っていなかった。曇り空だったが。

私は天気予報を見る習慣がないから、いつ雨に遭遇するかよくわからないまま生きている。最近の雨は走ればなんとかなる小雨やざっと降ってすぐ止む夕立が多かったのでどうにかなってきたが、いよいよ冬になって変なタイミングで振り出したらコンビニで傘を買うはめになるだろう。

ところで傘の処分は面倒なイメージがある。金属なのかビニールなのか。調べればいいのだが、まだ調べていない。面倒くさい。ごっちゃりと積み上げられた傘から適当に拾い上げて、それの骨組みが多少曲がっていようが問題はない。私の悪い無頓着がよく現れている。


今日はカウンセリングの電話と精神科への通院があった。本当はカウンセリングを家で受けてから精神科へ向かうはずだったが、家で腐っていると精神が崩壊しそうだったので先に家を出た。駅のはじっこの迷惑にならなさそうなところで電話をした。

わたしは頑張っている。人生でこれまでまったく頑張ってこなかったから、他人から見れば水溜りでチャプチャプ遊んでいるようにしか見えないだろうが、必死に泳ぐ練習をしているのだ。だから、できることなら、このまま少しずつ「何か」ができるようになりたい。頑張りたい。私は頑張ればきちんとできるのだという成功体験を積みたい。

けど、まずは無断欠勤してしまったことに対する謝罪文を書かねばなるまい。